ボイス+パレルモ展@国立国際美術館
国立国際美術館は以前から気になっていたのでようやく叶って嬉しいです。
ボイスの作品や行動は直感的に眉をしかめてしまうものが多く、相容れないかも…という予感とともに展示を見始めました。
特に最初のキャプションで「脂肪」を素材として用いて…というあたりからすぐに「腐敗」というイメージに結びついたのが印象に残ったのだと思われます。
残念ながらこの印象は最後までなくなることはありませんでしたが、それこそが彼の目指すところでもありますし、後半には彼に親近感を覚えることもありました。
キャプションに繰り返し登場するボイスの目的。それは「芸術概念の拡張、であり、広く公衆に語り掛け、挑発し、駆り立てること」
それは直感的な「良い」からの脱却とも呼べるものなのではないか。そして「良い」とはなんなのかということに関して再考させるということなのではないか、と感じました。
私は常々「良く」あることを志向し、それを「美しい」という言葉で表します。この場合の「美しい」とは単に見目が良いということではなく、「clean」「sophisticated」「pure」「inocent」「beautiful」などなど、私の思う「良い」の集合体を意味します。
まず、ボイスは私に「それらは本当に良いのか」と語り掛けます。腐敗さえも内包した作品を通して、私の「美しい」を拡張せしめんとします。
さらに、「言語化」と「芸術概念」の呼応があります。
私は常々「もっと言語化する習慣があれば、人々は幸せになれるのではないか」と考え、実践しています。
例えば「パートナーが欲しい」と思ったとき、欲しいのは本当にパートナーなのかを立ち止まって考えてみる、ということです。
本当にパートナーが欲しいときも、ただ単に孤独を感じていて温かいお風呂と甘いもので満たされるときもあります。実はただ話し相手が欲しかっただけ、ということもあるでしょう。
大事なのは欲求も社会の影響を受けるということです。世の中にはあまりにも「孤独」=「パートナーの不在」という図式が溢れています。
話をボイスに戻しましょう。ボイスは私の思う「言語化」の実践を芸術を通して行っていたのだと感じました。
つまりボイスにとって芸術表現の拡張はただ単に既存の芸術概念への挑戦を意味するだけでなく、芸術行為を再考することが人々の幸福に直結すると感じていたのではないでしょうか。
パレルモの作品はボイスに比べると「腐敗」がないからか、受け入れやすいものが多かったです。
そのなかでも最も引き付けられたのが 09 無題 でした。
この作品は大きすぎる木枠と小さすぎるキャンパスで構成されています。白い壁に展示されているのもあり、十字架のような神秘的な雰囲気を湛えていました。
彼の作品は従来の「美しさ」を備えたうえでの「既存の芸術」と捉えられ、ボイスがパレルモの弟子なのではなく、その逆なのがより、この展示に深みと説得力をもたらしていました。